JUNO2005-01-17

こんな毎日では日記に書くようなネタもうすれていくのである。

最近ギターがほしい。俺がほしいのはセミアコ的なやつである。グレッチみたいなド高いやつはいらない。あれ。ONO家で弾いたのはカジノだったっけ?とにかくカジノがほしい。まあああいう形状でいい感じならなんでもいいのだ。

身の回りが整備されていくと(つまり社会に出て金を稼いでいくと)、ふと立ち止まるとほしいものがなくなっていたりする。もちろん上を見れば車がほしかったりステレオを整備したかったりとキリがないのだが、もう別にどうでもいいやという気分になってくるのである。

こういったどうでもよさというのは自分の限界と関係してくる。車を買うと車にまつわるさまざまなわずらわしさが便利さを凌駕する気がする。便利さには限界はなく、わずらわしさには限界がある。

もちろん金もそんなにばかみたいにあまってるわけではない。慎ましいもんである。金の限界も知れてるものだ。

世の中には自己啓発という分野に尽力する人たちがいる。俺はそういった人をすごいと思うが、そこに尽力することにはロマンティがない。ささやかなロマンティが決定的に欠けている。がんばれない自分、どうでもいいやな自分、なんとかなるさの自分に俺は深い愛着を感じ、そのなんとかなっていくさまをずっと見ていたいと一人思うのである。そこにはロマンティがあるのである。

※「ロマンティ」造語。ロマンティックのなりかけ。抽象的に言うと感じ入ること、また感じ入るさま。とまってるような、つっかえているような心の状態。俗に「ぼんやり」と形容されるさま。